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台北を訪ねて
平成12年11月27日 職場の先生方とともに台湾に研修旅行に行ってきました。 台湾は名古屋から1500Km、飛行機で約3時間の距離にあります。 日本より西側にあって日本標準時の基準となる東経135°の明石市より経度で15度西側になるので、台湾は日の出が日本より1時間遅くなります、時刻は日本より1時間遅れとなります。 名古屋を9:10に出た飛行機は日本時間では12:30に台湾につくのですが、台湾の標準時に切り替えるので、台湾時間の11:30到着と言うことになります。 |
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さて今回台湾に行くにあたって台湾の歴史を調べました。 1,16世紀までの台湾 台湾はタイヤール族、アミ族、ブヌン族など9部族の先住民族(マレー・ポリネシア系民族)が生活していた。 2,中国やオランダに支配される台湾(17世紀) 明代末期北部は福建省より移民が始まった。しかし南部はオランダの植民地となった。 1626年スペイン艦隊が北部台湾に侵入淡水付近に要塞を建築、中国からの移民を入れ北部を支配する。 1642年スペインはオランダに攻撃され台湾を撤退する。 3,中国(清)に支配される台湾(17〜19世紀) 1662年明王朝の末裔はオランダ軍を攻撃、撃退して、台湾に政権を樹立清王朝をきらって台湾に移民も多くくる。 しかし清王朝はこれを攻め滅ぼし、台湾を副建省の管轄とする。17世紀には移民も増加し、各地の集落が栄えた。 4,日本の植民地となった台湾(20世紀前半) フランスやイギリスの攻撃を受けたがそれに耐えたものの1894年から起こった日清戦争では日本に負け、1895年台湾は日本に割譲され、日本の植民地となりました。 日本が支配し始めるとき、台湾の人達は抵抗し死者が1万4千人も出ました。 日本は台北に総統府をおき植民地支配を敗戦する1945年まで行った。 |
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5.中華民国となる(20世紀後半〜) 1945年日本の敗戦による日本軍の撤退後、中国軍が上陸してきて、台湾は中華民国政府の統治下におかれる。中国大陸で中国共産党との内戦で負け追われた中国国民党政府(蒋介石政権)軍が台湾に逃げてきた。 中国大陸からからきた国民党の人たち(外省人)が政治の中枢を握り、もとから台湾にいる人たち(本省人)を国語(北京語)もできない二等国民として蔑視し、搾取したため、1947年2月28日、民衆が蜂起した。(2・28事件) 台湾に駐屯していた国民党政府軍の力では鎮圧できず、大陸から増援を得て鎮圧したものの、全島において28,000人が虐殺されたという。 1949年12月、内戦で敗北した蒋介石国民党政権は台湾に遷都台湾全域に戒厳令を引き集会、言論、結社の自由を認めない恐怖独裁政治を強行した。 この戒厳令は1975年の蒋介石の死後も続けられ、蒋介石の子の蒋経国総統によって1987年ようやく解除された。 6.孤立化する台湾 蒋介石の時代末期、国連の議席が中華民国(台湾)から中華人民共和国に移り、台湾は国連を脱退、孤立化をする。 このような微妙な変化が本省人の力を大きくし、非・国民党(本省人)の政治グループが大きくなっていった。国民党はこれを弾圧しようとしたが、アメリカも弾圧を許さず、非国民党の力が大きくなっていき、台北市長に非・国民党の陳水扁(現総統)が当選した。 |
発展する台北市 |
1.故宮博物院 (クォリーコンポーウーユェン) さて今話したように中華民国政府は、日本と戦争が始まった時、宝物を日本に取られないように、北京の宮殿から運び出し、爆撃でこわされないように、中国国内を点々と隠して異動していたのですが、共産党に負けて台湾に逃げてくるとき、その宝物をすべて船で台湾に運んできました。その宝物が展示してあるのが、この故宮博物院です。 中国の文化は日本の縄文時代(紀元前2000年頃)から発達しており、大理石彫刻や青銅器がたくさんあります。 清の時代の象牙の透かし彫りの彫刻の弁当箱も見事でした。親子孫と3代かけて作ったそうです。 |
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翠玉白菜 これは清の時代の皇后陛下の嫁入り道具であった翡翠でできた白菜の飾り物です。白菜は清廉純潔を意味し、キリギリスは子孫繁栄を意味するそうです。 |
北宋汝窯青磁無文水仙盆
青磁と言われる美しい陶磁器の焼き物もすばらしかったです。 |
2.龍山寺 龍山寺は今から260年前に作られた、台湾で最も古いお寺です。人がいっぱいで、熱心にお参りしている姿に驚かされました。 またお寺の境内には道教の媽祖をお祭りしてありました。 台湾の宗教は仏教 486万人、道教 364万人、キリスト教 72万人、その他 180万人ということで道教が多いのにも驚かされました。 |
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3、総統府 (ソントンフー) 日本が日清戦争で中国を負かしたとき、台湾は日本に割譲されました、日本は台湾を治めるために台北に台湾総督府を置き、台湾を支配しました。その総督府の建物がこれです。太平洋戦争末期米軍の空襲で内部が全焼しましたが、日本が敗戦で引き上げた後、国府軍はこの建物を改装して総統府(政治の中心)として使うようになりました。現在この辺り一帯が行政の中心となり官庁の建物がたくさんあります。 |
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4.中正記念堂 (チョンチェンコンユェン) 中華民国ができた後、台湾を支配した蒋介石総統を記念して建てられた建物です。 |
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5.忠烈祠(チョンリエツー) 抗日戦争と中国共産党との戦争で亡くなった人達・33万人の霊を祀る廟(墓)です。 写真のように衛兵が立ち、1時間毎に交替の式があります。交替するまでの一時間、まばたきをすることも許されないそうです。 のです |
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また台湾では二年間の徴兵制度があり、学校を出た後必ず、軍隊に入って訓練を受け、このような衛兵とか金門島など中国との境界に近いところで、軍事警戒などの任務に就かなければなりません。 これも台湾の国際的に難しい立場からくるも |
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6.228和平公園 (アールアールパーフーピンコンユェン) 中国大陸からからきた国民党の人たち(外省人)が政治の中枢を握り、もとから台湾にいる人たち(本省人)を国語(北京語)もできない二等国民として蔑視し、搾取したため、1947年2月28日、民衆が蜂起した。(2・28事件) 台湾に駐屯していた国民党政府軍の力では鎮圧できず、大陸から増援を得て鎮圧したものの、全島において 28,000人が虐殺されたとそうです。 今年総統に選ばれた陳水扁さんが台北市長の時に作ったそうです。 |
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7.現代の台湾最後にこれが現在の台北の中心街です 電脳とはコンピュータのことです。現在メインボードというコンピュータの大事な基板は台湾が最も進んでいます。 一方中国(中共)との関係が難しく、徴兵制をとり、自分の国を守ろうとする意欲も高いように感じまた。 私たちも台湾に負けないように頑張らなくてはいけないな、と感じて帰ってきました。 |
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